「しいのみ学園」を創設 しょう地三郎さん死去:朝日新聞デジタル

「しいのみ学園」を創設 しょう地三郎さん死去:朝日新聞デジタル

西谷英雄先生と交流の深かった曻地三郎先生が死去

2003年光の村に来園された時の体育館での写真

曻地先生 008

 

曻地三郎先生は100歳を超えてなお生涯現役教師とおっしゃって、西谷英雄先生もこのようになりたいと最後まで病室で書き物をされていました。

曻地三郎先生のご冥福をお祈りいたします。

 

西谷英雄先生の軌跡 宇井純先生の追悼記事より

※2006年12月15日の高知新聞記事より抜粋

高知新聞 【12.15 夕刊】  [金曜フリースペース] 「富田八郎(とんだ・やろう)」(宇井先生のペンネーム) 宇井純さんをしのぶ
浦戸湾を昔の姿に戻せばいい  「このまま進めば、自然界は丸裸になる」
水俣病の問題を告発して「チッソ」と対峙(たいじ)した富田八郎さんがことし11月、74歳でこの世を去った。「富田八郎」さんは「生コン事件」裁判で、特別弁護人を務めた環境科学研究者の宇井純さん=享年(74)=のペンネーム。事件から35年が過ぎた今夏。裁判の話を聞きに東京の自宅に伺うと、まじめな顔でさらりと言った。「浦戸湾は埋め立てたところを掘って、昔の姿に戻せばいい。魚ももっと豊富になるしね」。公害企業を実名で告発し、行政の責任を追及した「とんだ・やろう」。彼もまた、湾に魚が戻ったことを喜んでいた一人だった。(吉良憲彦)
* 魚が戻ったことが、豊かさ
宇井さんは、東京生まれ。東京大学卒業後、化学会社に勤務。富山県内の塩化ビニール工場では、製造工程で使用した水銀を水で洗い流す作業も行った。 思うところがあって、三年ほどで退職。大学院に進んだが、新聞紙上で水俣病の原因として有機水銀が上げられるようになった。本当だろうか。研究の合間を縫い、現地に足を運び、個人的に奇病の原因を探り始めた。ついに、日本チッソ株式会社の工場廃液と水俣病の因果関係を知ることになる。が、当時は「公表する勇気がなかった」。
昭和四十年、東大都市工学科の助手に就く。そんな中、新潟県で「第二水俣病」が発生。死者が出た。 「一半の責任はある」と、調査結果を公表できなかった自分を悔いた。公害との対決を決めた。
企業や行政を告発し続ける宇井さんは、学内で昇進できず「万年助手」と呼ばれた。だが、そんなことはお構いなしに、昭和四十五年から、大学非公認の夜間自主公開講座「公害原論」を開講する。 「私の現場主義から言えば、この東大こそ、科学技術の腐敗を告発する場所の一つとしてふさわしい」と著書に記した。多くのほかの大学の学生や会社員、主婦らが通った。講座は六十年まで続いた。
「被害は被害者のところにある」。その信念がぶれることはなかった。被害者の立場に立った告発を続け、四十七年から始まった「生コン事件」裁判では事件の主犯となった市民に請われ、特別弁護人を務めた。 ことしの夏、その時のことを宇井さんに自宅で聞いた。少し、体調が優れないようだった。開口一番、「朝から足がしびれちゃって」と申し訳なさげに言った。
「事件をニュースで聞いた時、彼らは命がけでやっていると思った」「(最初)学生がやったかと思っていたら、分別のある大人が起こしたものだった」。ベッドに横たわったまま、まぶしそうに目を細めた。 静かな口調なのに、熱を帯びていた。
「このまま経済的な合理性だけで進めば、自然界は丸裸になりますよ。素っ裸になりますよ。それでもいいのか、ってこと」「浦戸湾に魚が戻ってきたことが、豊かさ。種類の多さという点で数字でも表せた。豊かさとは、幸せということだと思う」
「事件は高知市民の実力の現れ。ノンフィクションでは表現できないと思う。誰かフィクションで書いてくれないかなあ」とも言った。
十一月十六日。都内で行われた宇井さんの告別式には、約五百人が参列した。その席で妻の紀子(のりこ)さんは、夫のこんな言葉を紹介したという。
人生には 自然を破壊したり 人びとを苦しめたりしないで済む そういう選択をする機会が必ずある もし人が 生涯にたった一つでいい 本当に良かれと思う選択をしてくれたなら この社会はきっと変わるはずだ。

DSCF9567
* 僕が設計して子供たちが作った 養護学校に“遺産”汚水処理場  今も現役
宇井さんの本業は、工業排水処理。名誉教授となった沖縄大の水処理施設も設計している。実は県内にも、設計した施設が残っている。 「『光の村』ってあるでしょ。そこに汚水の浄化槽があります。僕が設計して、子供たちが作ったんですよ。日本で一番安い浄化施設じゃないでしょうか。七十万円ぐらいで、できた」(宇井さん)
土佐市新居。低い山のふもとに光の村の養護学校とその寮があり現在、約百五十人が利用している。そばには、ちょろちょろと小川が流れる。 学園長の西谷英雄さん(80)は「かつて、全国で公害問題に取り組む方々が、宇井先生に聞いたと言って来てくれました」と振り返る。 施設は小川の上流にあり、排水の水質をどうするかが問題だった。施設整備には多額の費用が掛かる。関係者は頭を悩ませていた。そこへ同市の紹介で宇井さんがやって来た。昭和五十二年のことだった。 話を聞き、「『それじゃ、ひとつ。私の方式でつくってみますか』。そう言って、設計図をくださったんです」(西谷さん)
翌年、バクテリアの働きを利用した「活性汚泥方式」の設計図を渡された。約三カ月かけ、生徒らが土を掘り、コンクリートで固めた。 西谷さんの案内で、敷地内にある宇井さん設計の汚水処理場へ足を運んだ。 屋根はない。においもない。周囲をフェンスで囲まれた長円形のコンクリート製の槽がある。中を、ぐるりと茶色の水が右回りに流れている。ちょうど、流れるプールのような格好。 処理場は奥行き約二十メートル、幅約十メートル、深さ一・八メートル。中央部分にコンクリートブロックで築かれた“島”があり、その脇で、電気モーターで動く古びた水車が盛んに水をかき上げている。水中に酸素を送り込むためで、しぶきが跳ねている。 仕組みは単純。水中の微生物が有機物を食べ、水質が回復する。汚れは底にたまって、きれいになった上澄み液だけを流す。いわば、時間が水を再生する装置だ。
当時の資料によると、費用は約七十五万円。同様の処理能力を備えた施設と比べ、約二十分の一の費用で済んだという。ちなみに、宇井さんは設計代も取らなかった。 夏休み、宇井さんは教え子と一緒に、処理場の水質検査に訪れ、朝から晩まで検査を続けた。だがこれも「旅費を差し上げるとか、何もしてないんです」「とにかく大らかな、あったかーい方でした。名を売ったり、金もうけをしたり、そんなことは全くなかった」(西谷さん)。
その後、学校は建て替えられ、新たな浄化槽も備えられた。だが、宇井さんが設計した汚水処理場は今も現役で活躍。近くの寮などから出る生活排水が、ぐるんぐるんと回り続けている。

※写真提供 広瀬一好氏(宇井純伝編集者)

20140912095028988_0004 (1024x716) (2)
【写真説明】今も活躍している、宇井さん設計の汚水処理場の水車(土佐市新居)

 

 

 

20140912095028988_0006 (1024x727)

1999年7月29日

宇井純先生の指導を受けて、自分たちでつくった回分式酸化溝汚水処理システムの横で説明をする西谷英雄先生