門田君の記憶 西谷英雄

一.高知市立旭小学校特殊学級への入級

昭和二十七年度、二学期が始まって間もなく利岡富次校長から次のような話がありました。

「門田覚という四年生の男の子が、一学期から時々登校途中で氏神様の森や、大川の広河原で遊んで登校しなくなっていたが、二学期はそれが毎日になっているらしい。担任が毎日さがしてくるが場所をかえる心配があるという。勉強が得意でないらしいから、君のクラスが適当ではないかと思うがどうだろう」。

今、私のクラスは八名でいっぱいですが、聞き捨てにはできません。私は「様子を見てみましょう」と答えて校長室を出ました。

担任から話を聞くと吃音がひどいということでした。不登校の原因は、そのために悪童たちから受ける「いじめ、からかい」だろうと見当をつけて、「うなぎのひご釣方式」でクラスへ誘いこもうと考えました。

毎朝彼の居場所を確かめて子どもたちを連れて行き、「かくれんぼ・鬼ごっこ・ごっこ遊び」などをにぎやかにやって引き上げることを繰返しました。

計略は大当たりで、門田君は次第に姿を現すようになり、ちょっとしたきっかけを作ると自然に仲間入りをしました。うなぎのひご釣は成功したのです。

二.「この子らには教育より飯だ」朝飯学級の記録 

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昭和二十八年の一学期に、ようやくひらがなを覚えた五年生の山崎くんが次のような日記を書いてきました。

「はん、いんたら、おはぐはないいいした。いたいいした。いたはいやた。いやたあとおもた。(晩、家に帰ると、祖母がごはんはないと言った。イタ=欠食、体が板のようになる=はいやだ。いやだあと思った。)」

終戦から十年足らず、朝鮮動乱でちょっぴり日本経済が潤ったとはいえ、私のクラスの家庭の極貧状態は改まらず、朝晩の飯に事を欠く家が多かったのです。「晩はお茶とおコーコでした。夜中におなかがグルグル鳴って寝られんかった」、そんな話を毎朝のように聞くのです。

空腹にさいなまれる子どもたちは、けんか、盗み、放浪等非行が多く、教師はてんてこ舞いの毎日でした。こんなことから次第に「この子らには教育より飯」と考えるようになりました。

校長に相談して教室に「足踏式の製縄機」を据えつけると、農家でもある校長は藁をトラックで運んでくれました。

子どもたちと「わら縄」を製造し、米・味噌を買い雑炊を作って朝飯にするのです。昼食は給食ですからこれで二食確保できます。だから晩飯がお茶とコーコでも我慢しようと話し合いました。今までの物作りとは違って、飯になる仕事に取り組むので目付きまで変わってきました。販売、購入の記録作り、金の出し入れ、計算による確かめ、今まであくびが出ていた教科的な学習も活気づいてきました。切実な食生活と結びつく仕事の学習は、今までの「教科と作業」という私の平板な教育方法に、たぎる力を与えました。山崎君の日記が私の目を開いてくれたのです。

 

三.県内第一号の中学特殊学級生徒になった門田覚君

昭和二十九年には門田覚君外四名が六年生になりました。中学特殊学級の開設を、去年から陳情し続けてきましたが県教委は全く関心を示しません。一学期の始業式の後で校長に、「中学の特殊学級作りはあきらめました。そのかわりに小学校で三年間教育を続けます。

つまり落第の取り扱いですが、全員就職させるので子どもたちにはプラスになります。そのために倉庫になっている広い土間を木工室にしたいのです。あそこは古机や教壇の山ですから、その材を使って保育園用の遊び道具を作ります。木工機械は明日から放課後に行商して買います」。

難しい顔をして聞いていた校長は、

「気持ちは分かる。しかし落第とは穏当ではないな。義務教育の放棄だから教師がそれをやると大問題になる」。

姿勢を正してそう言いました。

私は反論しました。

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「この子らの側に立ったら義務教育は悪法です。中学校で、毎時間変わる先生からわけのわからん日本語を押しつけられる。身動きもならない。学校がいやになるだけでしょう。」

校長は机の上にひじをついて、私を見すえたまま黙りこみました。

「それでは卒業証書を書きますが、子どもは中学へ渡しません。」と捨てぜりふのように言って校長室を出ました。

新学期の仕事始めをすませてから、放課になると行商に出ました。「コンブ、黒砂糖、固形石けん」などの包みの入ったリュックサックを背負い、列車とバスを乗り継いで約一時間、友人のいる山の学校へたどり着くと、そこを基地に集落を回るのです。コンブの小束は一つ売って一円の儲け、今まで一円玉などは金の仲間ではない程に軽く見ておりましたが、こうなると重い金です。それに重大な発見がありました、「子どもたちは中学を卒業すると、こんな重い、汗のしみこんだかせぎで生きていく」のです。子どもたちの人生への共感が、肩に食いこんだリュックから全身にしみこんでいきます。夏も秋も冬も歩き続けて、中古の「かんな盤・木工旋盤」を手に入れ、「のこぎり盤」は部品を買って自作しました。

昭和三十年の三月上旬、まだ底冷えの厳しいある日の夕方、ようやく手に入れた機械を据つけて油布で磨いていると、背中の方で人の足音がします。ふり返ると我が校長と中学校長が並んで入ってきました。

「手を止めてすまん」、中学校長のことばに立ち上がると、「うちには特殊学級が無いので、せっかくの君の努力も引き継げない。それで新しい中学生をここで預ってもらいたいのだが」と、思いがけない話です。

私は、うちの校長の顔に目を移しました。校長は大きくうなずいてから「君がその担任だ。小学部へは教務の方から先生を回します。」ときっぱりと言われます。私の目の中で、校長の顔がにわかに大きくうるみはじめます。

こうして県下初の中学特殊学級ができて、小中一貫教育が始まりますが、その中学部は県教委の知らぬ「もぐりの学級」です。(この学級は昭和三十二年に正規の中学特殊学級となります。)

しかし門田君たちは三年たつと中学を卒業します。全員就職とはいかないこともあるので、高知市長氏原一郎さんに高等部のある市立養護学校の設立を陳情すると、市長さんは、「今からその準備に取り掛かろう」と、旭小から一キロ程離れたところにある市有の建物を改修して「旭小・城西中養護学級分室」を作ってくださいました。

市長さんはそれから時々学校の候補地の視察をされますが、私もそのお供をおおせつかったことがありました。

中学部の授業は木工が中心です。材料は古机・イス・教壇・教卓の廃物利用ですから無料です。しかも倉庫が片づくのでどの学校へ行っても喜んで提供してくれます。「丈夫で安全、そして長持ちをする」をモットーに作る遊具は好評でした。当時は保育所の増設期で、保母さんは遊具不足に悩んでいたのです。加工方法や仕上げには、専門家をたずねたり招いたりして学習を繰返したので、やがて専門の業者が取り扱ってくれるような製品に育っていきます。

小学時代のわら縄作りよりもお金が多く動くので、全員が毎月一週間自活合宿を行い、県外の木製遊具工場への研修にも行きました。

 

四.昭和三十四年五月には門田覚君のために代用高等部を開きます。

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昭和三十三年三月には、「旭小・城西中養護学級分室」から県下初の中学特殊学級卒業生が出ます。自分の名前も正しく言えない程に障害の重い者も、コツコツ、ニコニコと良く働くので就職しましたが、門田覚君ひとりがどうしても就職できません。重い吃音のために、新しい集団への参加には無意識に拒絶反応が出るのです。このトラウマを改めるにはまだ教育が必要です。

家庭的には中三の段階で命綱の母親が死亡しており、父親は健在ですが、子の教育はすべて母親でしたから、葬式のあとは西谷と暮らしておりました。

市立養護学校はまだできないので、この子を第一号生徒に、「高校段階の特殊学級」を作ることを計画しました。

学校教育法に「高校にも特殊学級がおける」とあるのを盾に、県教委へ公立高校から教員の派遣を願い、「旭小・城西中・高知西高養護学級分室」へと進めようとしましたが、不成功でした。文部省へも押しかけて、高校の特殊学級開設か分室方式を陳情しましたがこれも不成功でした。そこで高知市長氏原一郎さんをたずねて工場作りの陳情をしました。

「私たちの卒業生で、高校年齢の教育が必要な者ができました。その子は重い吃音のために人間関係を広げることが難しく、どうしても就職できません。父親は教育力が弱く、母親は死亡しましたので今私が引き取っております。

この子は神経が繊細で根気があり、手も器用ですから『紙箱作り』が適していると考えて、今学校でその子を連れて箱作りの研究をしておりますが、この仕事は知的障害の女の子にも適職だとわかりました。それでこの仕事を中心に、高校段階の教育機関を作りたいのですお力添えをお願いします。」と前置きをしてから作った箱を見せ、工場のプランを説明しました。(内容は五の項を参照)

市長さんは「目的は立派です。しかし作っても運営補助金の無い施設です。生きのびることは難しいでしょう。」と私を見すえるようにして言われます。「箱を死にもの狂いで売ります。赤字の時は給料で補います。」と答えると、「あなただったらやり切るでしょう。でも教育機関は未来永劫に続かなくてはなりません。経営は感情ではなく数字です。」温かい笑顔で厳しい結論を出されました。

私は市長室を出ると、その足で県庁・紙業試験場・商工会議所・観光協会等、紙箱に関係のある機関から情報集めを始めました。商工会議所で教えられた企業調書の機密文書を、市役所に通いつめて盗み見もしました。

こうして集めた資料を専門家に分析してもらい、予定している工場規模で三年間の損益計算書を作り、市長室へ持っていきました。すると食い入るように見ていた市長さんは「よく調べました。わかりました。必要資金は私が寄付しましょう。予算を組んでいたら来年になります。」と笑顔で言われました。そして「市立養護学校を作る時には、この工場を高等部に吸収しましょう。」と付け加えました。

こうして私は昭和三十四年五月から小学校で小・中・高の一貫教育体制を持つのです。門田覚君はその代用高等部の第一期生です。

 

五.青年期には『大人の仕事・大人の暮らし・定年まで働きぬく体を作る』

「最初の一箱から一級品を作る」

これが代用高等部・紙箱工場の目標です。青年期の教育はプロの働き手を目ざします。だから職員は「紙の断裁の専門家と箱の仕上げの専門家」を一名ずつ置きました。門田君はこのお二人にぴったりくっついて、先ず専門家の手足になるのです。これが私流の技術教育の第一歩です。専門家は資材の置き方、その資材を半製品に変え、製品となっていく過程の物の置き方、動かし方、道具の使い方には、「だからこうする。こうなる」という長い経験が生んだ理屈があります。優れた仕事には優れた流れがあるのです。その流れの中に身を置いて「見て・合わせて・動く」ことで、次第にその雰囲気に染まっていきます。そして技能の習得へと進みます。

この際に大切なことは生活です。暮らし方が技能習得の基礎ですから、日々の生活では可能な限り自立しなければなりません。一期生の門田君の場合は完全な自立を目ざしました。

そのために養護学級分室へ寮を開きます。月曜日から土曜日まで二人で泊まりこみ、食材の買出しから調理・掃除・洗濯・風呂沸かし(薪作りから)のすべてを彼が一人でやるのです。私は掃除・風呂沸かしの手伝いだけで、その他は見かねる時にだけ手を貸します。

毎日八時間働いて次の週へ疲れを持ち越さず、定年まで働きぬく体作りは本人の心掛け次第です。門田君の動きは少々ゆっくりめでしたので、「動きはさっさ」と決めました。そして毎晩、分室の前の一周五百メートルの道を八周します。彼は喜んで黙々と走り続けました。

 

六.門田君の転職と復帰

門田君は次第に腕を伸ばし、三年で断裁の助手ができるようになり、五年で断裁できない箱はなくなりました。こうなると自信を持ちすぎて、「自分はなんでもできる」と言い出し、止めるのも聞かず父親と大工を始めました。半年ほどたた頃、父親は脳溢血で死亡しました。葬式の後で、門田君が「静岡で就職した」と言ってきました。「静岡へ連れて行ってもらうことになっている」を繰返すばかりで、詳しいことはさっぱりわかりません。そして本人は明るい顔で帰っていきました。

それから一年余りたちました。ある日の夕方、紙箱の配達に出発しようと自動車を動かしていると、突然門柱の陰から黒い塊が飛び出してボンネットへとびかかりました。急ブレーキを踏むと門田君でした。

工場に引きかえして、どもりどもりの話を聞き終わった時はもうとっぷり日が暮れておりました。彼の就職先は大井川上流の土木工事の飯場でした。そこで激しい労働を続けているうちに、足に大けがをして仕事ができなくなりました。傷が治るとわずかな金でおはらい箱になったのです。西も東もわからない、引っ込み思案の吃音者の一人旅です。さんざん迷っているうちに持金を使いはたして無一文になりました。やむなくプラットホームの水道水で腹の虫をなだめながら、ようやく高知へ帰ってきたというのです。

「君の家はここだ。またがんばろう」

終りまで聞かずに門田君は顔をくしゃくしゃにして泣きだしました。それからの門田君はすべての面で意気込みが違います。技能も更に伸びて断裁できない箱はなくなりましたが、寸法合わせに時間がかかります。これは彼の場合は仕方がないので機械化の計画を立てました。ボール紙断裁用・化粧紙断裁用と二台の断裁機を購入したのです。資金は父親からもらった遺産の前渡金でした。

 

七.門田君、断裁工場長に就任。

市長さんが約束してくださった市立養護学校は、昭和三十八年に開校しますが、市の財政事情が悪くなったために高等部の無い学校になりました。苦肉の策で代用高等部を学校にくっつけて、校内高等部とし、教頭の西谷が工場長を兼ねますが、運営が中途半端になるので一年で退職をして紙箱工場を足場に知的障害児施設を開き、私立の高等養護学校作りを目ざします。

ここでも市長、氏原一郎さんに強いご支援をいただきました。児童施設は市長さんのおかげでできたのです。市長さんには昭和四十四年に開校した学校法人の初代理事長になっていただきました。

紙箱工場は次第に大きくなって断裁工場と仕上工場に分かれますが、門田君は断裁工場の工場長に就任します。仕上部門には生徒が職員と共にはいりますが、この組織で県下一の工場に成長していくのです。

 

八.門田君、結婚する

「健康で、誠実で、仕事ができる」、門田君は結婚の資格をしっかりと身につけました。年齢も三十五歳、少し遅くなりましたが嫁さがしを始め、昭和五十三年十二月に結婚式を上げて、四国一周の新婚旅行に出発しました。

 

九.土佐市障害児教育の新組織を作る

門田君の結婚式の当日、市役所の課長である友人と、近い将来の門田家の育児問題を話しているうちに、日頃考えていた市の障害児教育改善策の話になっていきました。それは市内各保育園で、それぞれにやっている障害児保育を更によくするために、各園での統合保育の方法を見直すことと、障害そのものへの専門保育を開発することです。光の村も参加して障害保育の新組織を作ろうということでした。

市のほうでも「ぜひやろう」ということになり、市長、教育長、厚生部長、福祉事務所長、学校長代表、保育園長、保母代表に光の村が加わり、何度か話し合いを行い、「土佐市障害児教育推進協議会」を結成し、「さくらんぼ教室」という総合的な幼児教室を開くことになりました。

具体的には、週一回光の村に市全体の保育園長・担当保母・障害児が集まり、運動療法・遊戯療法を中心に専門保育を行い、子どもの午睡の時間に各園での統合保育の週間プランを作る。そしてその実施状況の記録を取って合評会を開き、年度末には研究会を行うというものでした。門田君が障害の子を持つとは限りませんが、この結婚がきっかけで土佐市の幼児教育が一歩前進の姿勢を取ったことは確かです。

 

十.門田家・第一子誕生と乳幼児期から学校時代の教育

この子の満1歳の頃の1日の表

第一子の妊娠を確認したのは昭和五十四年三月でした。光の村では早速、教師・指導員・保母・看護婦・理学療法士でメンバーを組み、「水曜会」という組織を作りました。誕生前の父親になる人と母親になる人の教育と、誕生後の母子と父親教育について話し合うのです。そして毎月子どもの状況を原稿にまとめて、土佐市の広報へ連載をすることも決めました。

出産は五十四年十二月七日の深夜で、体重は三千六百グラムありました。水曜会では早速校内に「乳児保育室」を作り、出産時のデータ集めに取りかかりました。これから理学療法士を中心に、子育て経験のある職員が参加して毎日の療育的保育を続けます。

三歳になると地元の保育所へ入園し、「さくらんぼ教室」で教育を受けて、小学校は高知大の附属養護学校へ入学しました。中・高・専攻科は光の村養護学校で教育を行ない、平成十一年に卒業すると地元の羽方商店に就職しました。

 

十一.門田君、定年を迎える

「新年おめでとうございます。」門田君は丁重にあいさつしてから、「今年は定年の年ですが、いろいろお世話になりました。最後の年をしっかり頑張ります。」と目を潤ませて決意のことばをのべました。

彼は今、嘱託二年目で、仕事の質も量もまだ落ちておりませんが、今後、長い老人期を支えるために、療育手帳を申請することとなりました。

子どもの成長を追ってきた光の村教育