K男の成長と軌跡が光の村です

西谷 英雄

  私の子ども時代は病弱で、夢ばかりふくらませるので、夢夫君と呼ばれておりました。ところが特殊学級担任になると、これにリアルな闘争派の一面が加わります。

昭和二十七年、小学四年で知的障害と吃音で不登校を繰り返すK男を担任しますが、家で朝晩の飯がない日があり、お茶と漬物で一時しのぎをしておりました。組にはほかにも飯の無い子がいて飛行に走るので、「学級へわら縄製造機を持ち込んで縄を作り、雑炊を炊いていて皆の朝食らする」と、欠席も非行も次第に消えて行きました。

彼が六年になると、中学特殊学級開設の陳情を繰り返すが認められません。それで放課後に行商をして木工所を作り、中学生の教育を小学校で行うことにします。これが県内初の中学校特殊学級です。三年間でK男は力をつけますが、吃音が重くて就職できません。そこで適職を研究し、校内へ「紙箱製造工場」を開いて技術者を二名採用し、K君と三人のプロの工場とし、「代用高等部」の看板をかけました。

それから十年の歳月が流れて、この工場から光の村(高等)養護学校が生まれます。ここで技術者は退職しK君が工場を背負って立ちます。そして更に十年後には、県下一の生産を誇る工場へと発展します。「健康で良い仕事ができて人柄が良い」Kの結婚適性は満点です。花嫁を迎えて校内へ夫婦寮を作りました。やがて出産です。S子と名付けました。遺伝で知的障害が無いとは言えないので、校内へ乳児保育室を作り、理学療法士を主任に迎えて、子育と経験のある職員がわきを固めました。

療育は運動機能の発達を目標に、バルーン療法とマッサージ利用法を組み合わせて行いながら、少女気分が濃厚な母親から、母性を引き出し育てることを楽しんで行いました。この記録は毎月土佐市の広報へ連載しましたが好評でした。

S子は一歳半で直立・歩行に移りました。療育の成果で動きの質が良いのです。皆は自然に、「次は社会を」と考えるようになります。「社会性」をいえばいまの土佐市の障害幼児保育にも必要がありました。保育園に障害幼児がいると加配の保育士が配置されますが、それから後の活動に社会的な広がりがありません。そこで毎週一回光の村で合同保育をしようということになりました。光の村では遊具や運動器具を作って療育遊園地を開き、おやつやパン作り等も受け持ちました。そして各園での対象児の個別療育・統合保育の案を作るなど、光の村あげて協力体制を組みました。

S子は今年二十八歳、市内へ通勤している独身です。K男も六十五歳、S子の母親は毎日何度も我が家へあらわれて、掃除・洗濯・食事作りのおかずのおすそ分けなど、まるで息子一家です。